いつもお世話になっております。あるいは、はじめまして。この記事を読んでくれてありがとう。インプリメーレというバンドでホルンを吹いている唯我独尊の中野です。それでは、金曜日の中野さん、シーズン2をはじめます。
先日、ライブ後の打ち上げのさなか、進路の相談を受けた。「現在、大学3回生であるが、修士に進むべきか、それとも就職するべきか。そろそろ腹を決めないといけない」と。人生設計に関する難しい問題だ。
ところで、人が悩み事を打ち明ける時、女性はただ聞いてもらうことを求め、男性は解決策を求めると言う。回答者である自分自身がしがないダメンズであるためどうしても解決策を答えてしまいがちである。その時も「人間軸・技術軸・業界軸という3次元の立体を想像して、それをできるだけ大きく出来るようなキャリアパスを考えたほうが良いよ」と胡散臭い職業カウンセラー的なことを答えた気がする。これじゃあモテないね。「大変だよね」「分かる」「俺もすごい悩んだ」「分かる分かる」とか言っていればあるいは無難に終わったのかもしれない。まったく、やんなっちゃうね。とはいえ、こういう人間なんだもの、仕方ないね。
でも、俺が本当にその場で言いたかったのは、そういうノウハウ的なことじゃぁないんだ。自分自身もまた、節目節目で迷うだろうし、現在進行系で大問題を抱えている。そういうわけなので、まずは自分のために、まとめてみようと思う。もし彼女がこのブログを読んでいたら、また、他にも進路や今後の人生について悩んでいる人がいたら、最後まで読んでみて欲しい。もしかしたら少しは光明が見えるかもしれない。そうしたら、俺も書いた甲斐は少しはあるというものだ。
シーズン2が始まっていきなり超ヘビー級の文章量になってしまった。なお、普段はもっと気楽なコラムです。でも、シーズン初回のインパクトは大事だ。ドラマとかでも初回は少し時間延長したりもするしな。彼女にとって、そしてなにより自分にとっても時間が迫っている問題でもあるので、早々にやっつけてしまいましょう。
何事も、自分の人生は自分で決めましょう。そして、決めさせましょう。
身も蓋もねぇ答えだ。だが、自分の人生だ。自分で決めないといけない。
周りに流されつつ決めるのも悪くはないが、オススメはしない。もしメンターのような人がいるならば、アドバイスを求め、それを参考にしながら決めるのはいいだろう。自分の好きなものを基準にして決めるのもいいだろう。自分の有りたい姿を描き、それに近づけるように決めるのもいいだろう。世の中に流れる、現在や将来の潮流を見極めた上で決めるのもいいだろう。状況が選択肢を狭め、もはや選びようがない、ということもあるかもしれない。仕方ないね。
だが、いずれにせよ、自分の人生だ。後から後悔しないように、(できればじっくり考えた上で)覚悟を決めないといけない。そうでないと、俺みたいになってしまうぞ。
冒頭に引用したおやすみプンプンという漫画がある。主人公のプンプンは周りに流され生きてきた。とある大変な状況の中、プンプンは初めて自分の意思で決断した。そのことに対して、プンプンの叔父である雄一おじさんが屋上で語った言葉を引用しよう。
人生に於いてほとんどの出来事は自業自得なんだ。
浅野いにお『おやすみプンプン』(7巻)
自分で選び歩んできた道じゃないか。
そうだろう?
プンプン…… 人として生きてくうえで大切なものってなんだと思う?
…お金、夢、他人への思いやり……
…なるほどどれも大切かもしれない……
…けど一番大事なのは「覚悟」なのさ。
プンプンが一人で暮らすって言った時、…正直、おじさん痺れたよ。
正直おちんちんが捩れあがった。
プンプンが決めたことなら僕は何も言わないさ。
…たとえ、君がひき込もろうが殺人犯になろうが知ったこっちゃない。
ただもし――
ただもし君がそれを他人や環境のせいにしたら――…
僕ァ、貴様を日本刀でたたっ切る!!
…いいか!?よく聞け、この豚やろう!!
人生なんてびっくりするほどフリーダムなのさ!!
けど自由には責任があるってことを忘れちゃいけないのさ、ボーイ。
僕が翠さんに初めて中出しした時――
僕の中の僕がほとんど死んだ。
翠さんと結婚を決意した時――…
僕達は人生で起きたことをすべて洗いざらい話したんだ。
…だから僕は、君と翠さんの間に何があったのかをよく知っている。
…けど怒りは湧かなかった。
むしろ君を愛していると言ってもいい!!
…プンプン。
僕は思うよ…
人生っておもしろ過ぎるだろって。
生きていて無駄な時なんて一瞬もなかった。
僕みたいな人間の屑でもそう思える瞬間が来るんだ。
そうやって僕は今日も、この平坦な毎日を生きている。
君の死に場所はどこだ?
その時君の命は燃えているか?
プンプン……考えるんだ。
そして悩め!!
そうやって自分の意思で選択するんだ。
たとえ何もわからなかったとしても、わかろうと前に進んでいる限り、かろうじて自分は自分でいられるんだ。
この退屈な日常も、くだらない景色も、作りかえられるのは、自分だけなんだ!!
だからプンプン……
君が君でいる限り……
この世界は、君のものだ。
考えるための書籍
とはいえ、何も掴む藁が無いわけではない。先人から学べ。巨人の肩の上に乗るのが遠くの風景を見るのには一番楽だ。そのうえで、自分がどうしたいのか、よく考えて自分で決めろ。
書籍を何冊か紹介する。子供向けの簡単なものから、難解なものまで用意したので、気になったものをピックアップして読むといい。簡単な順にご紹介しよう。
働くってどんなこと?人はなぜ仕事をするの?
10代の哲学さんぽ、という全10巻からなる本場フランス発のジュニア向け哲学入門シリーズ。歴代の哲学者の名言が多数登場し、哲学の基礎にふれられる、哲学入門に最適の書。 9巻目の本書は、人生と仕事について書いてある。漢字にはルビも振ってある。大人なら10分から30分もあれば読み切れる分量であるが、内容の明瞭さ、シンプルさについては随一。
子供と大人の違いはなんだろうか?仕事をしていると大人なのだろうか?生きることと働くことは、絶対に結びついているのか?サミュエル・ベネットの『マーフィー』を引用し「人は絶対に働かなくてはいけないのか?」という問いかけをする。
モリエールの『守銭奴』を引用し「生きるために食べるのであって、食べるために生きてはならない」と説く。また、パスカルを引用し「人間の不幸は、部屋でひとりおとなしくしていられず、外に出るからこそ起こる」という意見もあるよという一方、サルトルを引用し「全ては外にある。自分自身にすら外にある。わたしは外に、他人の集う世界の只中にいるのだ」という意見もあるよ、と説く。
もはや、ヒトは自然の中ではなく「働く社会」の中で生きている。仕事とは、その職業に関わる人達、そして過去に関わってきた人たちが織りなす歴史だ。この世界は生きているヒトより、死んだ人たちによって成り立っていると言えるのかもしれない。
新 13歳のハローワーク
かつてベストセラーになった『13歳のハローワーク』の新版(とはいえ2010年刊であるが)。たしかに、13歳前後のボーイズ・アンド・ガールズが社会を知る上で非常に良い書籍だ。中高生の時にこれを読んでいたら、また違った人生を歩んでいたのかもしれない。でも、そうはならなかったんだ。ならなかったんだよ、ロック。だからこの話はここでお終いなんだ。
大きな本なので、わざわざ買ったり借りて家へ持ち帰ったりするのも大変だろうと思う。大抵の図書館などなら、青少年向けのところに置いてあると思うので、行って手にとってみて、パラパラとめくって書棚に戻すのがいいだろう。
これを読んでいる貴方がもし既に高校を卒業し、随分経っているような年齢であっても、『はじめに』は十分読む価値がある。好奇心の重要性。向いている仕事や好きな仕事との出会い方。好きなことを探したり、自分を探したりすることの徒労。仕事によって充足される欲望、手に入るもの。生きにくい世の中で、死なずに生き延びること。
そして、今の自分が好きなもの、得意なものがあるのなら、その職業の項目を拾い読みしていくとなお良し、だ。
大人の進路教室。
『ほぼ日刊イトイ新聞』(以下ほぼ日)という、コピーライターの糸井重里が主宰するほぼ毎日更新されているウェブサイトがある。貴方の周囲の人の中にも『ほぼ日手帳』という分厚めの手帳を使っている人がいるかもしれない。あれを企画し販売しているのが、このほぼ日だ。本当に良い手帳で、大きめサイズのcousinを愛用している。日清食品とほぼ日のコラボ商品『サルのおせっかい』というカップラーメンを中学生の頃、深夜の受験勉強中によく食べていた思い出がある。大好きだった。「またいつか食べたい」と思える食事はそんなにあるものではない。(なお、受験勉強はドロップアウトしました)
そのほぼ日で、初期の頃から続いている毎週水曜日のコラムがある。それが『おとなの小論文教室』だ。さっき見てきたら、連載数えること943回になっていた。マジですげぇな。この本はこのコラムを単行本化したもの。
実際のところ、この本は進路が見えない時に読むような指南書ではない。著者は、長年高校生向けに小論文教育に携わっていて、自分の頭で「考える」ことの面白さをいかにして気付かせるか探求して来た人だ。市井の人々が持つ一人ひとりの現実的な問題に対し、偉い人の素晴らしい見解や一般論で対処するのではなく、各人それぞれの考えを引き出している。
『特効薬ではありません。でも、自分の考えを引き出すのによく効きます』
就職しないで生きるには
わたしがまだ二十代で、一九六〇年代を炎のようにすごし、明日なんてないという気になっていたころ、仕事というのは憎悪すべき単語だった。わたしは終日遊びまわり、自由を求めて暮らしたがっていた。だがわたしたちはいま一九八〇年代に突入する。わたしも中年の三十路をむかえる。そして「仕事」は美しいことばになり、それこそが最良の「あそび」になった。仕事こそいのちだ。それ自身が報酬だ。その仕事がいいものなら、それを感じることができ、充実感がある。わたしたちは根源的利益をつかむ。(でも、むりをしないこと、これは忘れるべからずだ。追い求めれば、それだけ、逃げていってしまう。なんであれ)
はじめに
1960〜70年代のアメリカで、一山当てて、ステイツをあちこち流浪し、そして破産した著者の回顧録。そういうことだけ覚えておいて、p.199〜の締めだけ読むのもいいかもしれない。訳者あとがきが上手くまとまっていたので引用しよう。
六〇年代から七〇年代への推移について、マンゴーは「以前は、私たちは自由のために闘ってきたが、いまや自由のために支払わねばならない」とかいている。
訳者あとがきから
(中略)
彼は、六〇年代から七〇年代への新しい文化の進行を経験してきたのは、体制からのドロップアウトのつぎに、それならどうやって生きのびるか、「生計を立てつつ、同時に自由で、たのしめるしごと――マンゴーの言葉で言えば〈根源的利益〉――をどうやって作り出し、どうやって守り抜くのか」という問題だった。その実体をみ、それについて考えることが、この本の狙いだ。
リスクが大きすぎてチャレンジできない現代の日本と、当時のアメリカを比較するのは誤っているのかもしれない。しかし、その精神的な部分においては学べる部分というのは多かれ少なかれあると思う。 理想の働き方、というのも、ひょっとすると見つかるかもしれない。
トランジション
人生には何度か転機がある。幼年期、思春期、青年期、中年期、老年期。それぞれの移り変わりのところで、転機や節目、すなわちトランジションが起こる。人は動揺する。正直しんどい。よくある『中年の危機』、なんてのはそういったものの一つだ。
「終わり(死)」「ニュートラルゾーン(混沌)」「始まり(再生)」がトランジションのプロセスであり、トランジションを通じて人は成長する。特に「終わり」において何かを手放す時、外的内的問わず抵抗がある。「ニュートラルゾーン」は軽視されがちだが、このカオスこそが重要である。「始まり」はふと訪れる。現代は通過儀礼がほとんど皆無であるゆえ、我々は自ら(時にカウンセラーの助力などを得て)、このトランジションを体験、乗り越えていかなければならない。大変な時代だ。
教養の哲学
おそらく大学の共通科目の哲学入門の講座などで話していたであろう内容がまとめられている。古い本(初版は昭和32年)だが、非常に分かりやすい。ただ、哲学について語っている以上、ぐぬぬ…となる可能性はある。あと、手に入りにくいという問題がある。こういう本は図書館とか神保町とか下鴨納涼古本まつりとかに行かないと見つからない。何でも揃うと豪語するAmazonですら、在庫はマケプレの1点限りだ。買うなら急げ。
哲学について、これほど分かりやすく、うまく説明してくれた文章は無かったので、かなり長くはなるが引用したいと思う。
[三] 哲学的関心及び哲学的間題の原初的形態
さて、 「哲学的関心」というのは、少数の哲学専門家だけが持っている関心ではない。先に、 「人間の関心は様々である」と言って、株屋さんや投資家の功利的・実際的な関心と、経済学者や政治学者の科学的・理論的な関心との例をあげたが、 「哲学的関心」は、これらの関心とは少しく性質を異にし、職業や専門の相違にかかわらず、凡そ自覚的に人間らしい人間であろうしと欲するすべての人が、多かれ少かれ持っている関心なのである。概して言うと、少年期の頃までは、この関心は余り現れないし、又三十歳前後頃から後は、他の関心に押しのけられて、 「哲学的関心」が眠ってしまう場合も少くない。所謂「人生に眼覚める」と言われる青年時代に於て、この関心が最も顕著な形で現れてくるのが普通である。
「人生に眼覚めた」青年達は、「本当の人間らしい生き方」を求める衝動に促されて、「人生」について考え始める。少年時代には何気なく見過して来た周囲の世界が、青年達の心に新しい言葉を以て語りかけるかのようである。彼等の経験する様々な出来事、彼等の見聞する様々な事象、要するにこの世界の中の様々な対象が、 「如何に人間らしく生きるべきか」という問題を、折に触れて彼等の心に突きつけてくるようになる。
「人生」と呼ばれているものは、 「経済現象」だけでもないし「物理現象」だけでもないし、その他様々な特殊科学がそれぞれ研究対象としているところの、何らかの「特定範囲の事象」に限られたものではない。又様々な特定範囲の事象をただ寄せ集めた総計でもない。それら一切の申に遍く浸透し、それら一切を包容しながら、一つのまとまりを持った、統一的な「全体」である。それは人間が不断に至るところで、体験し、遭遇しているものだが、その全貌をハッキリと見定めることの困難な或るものなのだ。
このような統一的全体としての「人生」を「世界」と呼ぶこともある。「人生」と呼ぶ場合には、その統一的全体の中で人間が生きてゆく主体的な相に重点を置いて考えるのだが、 「世界」と呼ぶ場合には、人間生活の場をなす客体的な相に重点を置いて考えるのである。かくの如く、重点の置き所は異るけれども、実質的には「人生」も「世界」も同じ一つの「全体」を指す言葉なのである。
「人生に眼覚めた」青年達は、そのような「人生」や「世界」を、科学的に規定された概念という形で明確に認識するわけではないが、折にふれてそのようなものの存在することを感じ取り、漠然たる形に於てではあるが、その「統一的全体」に関心を持ち、それについて思いをめぐらすのである。
これは、未だハッキリした「哲学的関心」にはなっていないが、 「哲学的関心」の最も原初的な形態なのである。そしてこのような「人生」「世界」に対する関心に対応して起ってくる問題、「如何に人間らしく生きるべきか」という間題、は、「哲学的問題」の最も原初的な形態だと言うことが出来る。
[四]人生観・世界観
「如何に人間らしく生きるべきか」という問題が一度心中に起ってくると、 人間は何とかしてこの問題に解答を与えようとせざるを得ない。それは人生の最重要問題、最根本問題となる。人間は様々な機会にこの間題を改めて考えさせられる。併し、この間題を考えぬいて、徹底した解決をつけている人は稀であるし、又一応の暫定的な解決にもせよ、自覚的な形で自分なりの解答を整然と表現し得る人も少い。ただ大抵の人は、事実上、何らかの「生き方」を一応きめていて、その都度その都度に「如何に人間らしく生きるべきか」 という問題に実際上何とか解答を与えて行って居るものである。
普通に「人生観」と呼ばれているものは、この「如何に人間らしく生きるべきか」に対する各人の解答に外ならない。人生観は、多くの場合、漠然としていて、整然と言葉で表明し得るような形をとって居らず、叉自信に満ちた信念にもなって居らないけれども、事実上、同じ時代の同じ社会に生きる大抵の人が大体似たような幾つかの型の人生観を持っているものである。例えば、 「家族や友人などがほめてくれるような仕方で仕事に精を出し、物的にも精神的にもなるたけ豊な生活を送れるようにしたい」というような考えは、現代の日本人の社会に於て、多くの人の人生観の輪郭を形づくって居るもの、と言い得るであろう。そして、 「家族や友人がほめてくれるような仕方」とか「仕事に精出す」とか「物的・精神的に豊な生活」とかいうことについても、漠然ながら或る方向を持った解釈が与えられて居り、更に、このような人生観を何故採用するのか、という根拠についても、或る程度までは解釈が立てられているものである。多くの人が漠然と採用しているこのような人生観を、常識的人生観と呼ぶことが出来よう。
右のような常識的人生観に安住している限りは、人は「如何に人間らしく生きるべきか」という問題を格別に感じはしない。従って叉、「人生」や「世界」について格別に考えようとはしない。併し、生活に何か重大な変化が起ると、こうした常識的人生観はぐらついてくる。親や子供が死ぬとか、不治の病にかかるとか、友や妻に裏切られるとか、財産を失うとか、いう如き個人的な問題に際してもそうであるが、殊に、大きな社会的変動が起った時には、多くの人が人生観の動揺を感じるようになる。特に青年達は、 「常識的人生観」すら未だ固まってはいないので、格別に重大な生活上の変化が外部から押し寄せて来ない場合でも、人生観の動揺を感ずることが著しい。
人生観の動揺を感じた人は、改めて「如何に人間らしく生きるべきか」を問い、「人生」や「世界」について思いをめぐらす。「この我々の生活は何処より来り何処へ行くのか」「毎日あくせくとして努めているこの仕事は一体何の意味を持っているのか」 「昔から真であり善であると教えられて来たことは、果して我々の信奉すべきことなのか」「そもそも真とか善とかいうのは何のことなのか」――というような難問が、チラと我々の前に立ち現れる。それは恐るべき経験である。まるで自分の足下に底知れぬ深淵が口を開いたかのようである。
恐らく大概の人が、青年時代には多かれ少かれこの種の経験をすることであろう。けれども、この経験に対処する仕方は様々である。深刻に悩んだ末、宗教的信仰や一定のイデオロギーの信奉によってこの危機を脱出する人もある。学問や文芸の教養を通じ、或いは実際生活の体験を通じて、何とか自分なりの人生観を一応立て直す人もある。刹那的な刺戟を追い求めることに我を忘れて、頽廃生活の中に逃避する人もある。恐らく、これら幾つかのやり方が様々な割合で混合してる場合が一番普通である。そして何れの場合にも、人生観の動揺を終極的に解決してしまうわけではない。時々、人生観上の恐るべき難間に眼を向けては、改めて自分の人生観を一層しっかりと確立しようと欲せざるを得ないのが人間の姿である。青年時代を過ぎて、常識的人生観に安住するようになって後でも、このことは変らない。ただ「恐るべき難問」に眼を向ける機会が比較的少くなるだけである。
自分の人生観を一層しっかりと確立しようとする要求がある以上、この要求は人間の「考える力」を、「理性」を、呼びさまさずにはおかない。たとい宗教的信仰とか体験に基く信念とかいう形で人生観を打ち立てる人でも、理性に訴えて自分の人生観を吟味し、自分にも他人にも理性的に納得できるような形にそれを系統づけようと、何程かは努めるものである。人生観は「如何に人間らしく生きるべきか」に対する解答であるのだが、 「理性」はこの解答に批判の眼を向けて「何故?」という問を投げかけるのだ。この「何故?」に答えるために、人間は「世界」について考え、我々の生活の場としての「世界」という全体を、統一的に把握しようとする。つまり、「世界はかくかくのものだから、人間はしかじかの生き方をなすべきだ」という構造を具えた解答を、人間は求めるのである。このような解答、即ち、「世界」の統一的把握と、それに基く生活の規制を、普通に「世界観」と呼んでいる。世界観は人生観と実質的には同じもので、ただ「人生観」と言う場合には「如何に生きるべきか」に対する解答、という側面が強調されて考えられているのに対し、 「世界観」と呼ぶ場合には、その裏づけとなる「世界解釈」という側面も同時に考えられているわけである。人生観の確立を求める要求は同時に世界観の確立を求める要求でもあるのである。
人生論
トルストイが晩年にたどりついた人生観、世界観からくる悲痛な心の叫び。難解だが、若いうちに一回でも読んでおくと良いと思う。何度挫折しそうになったか。 個人的に好きなのが以下の文章。
われわれは山を切り開いたり、世界を飛び回ったりする。電気、顕微鏡、電話、戦争、議会、慈善事業、党派争い、大学、学会、博物館……これがはたして人生というものだろうか?
貿易とか、戦争とか、交通とか、科学とか、芸術とかいったものにともなう人々の複雑で激しい活動は、その大半が人生の戸口でうごめいている愚かな群衆の雑踏にすぎないのである。
番外|人生処方詩集
『二人のロッテ』などの児童文学で有名な著者による、図らずも人生の苦さを知ってしまった大人のための処方箋的な詩集。せっかくなので、好きな詩を3編ほどご紹介。
『これが運命だ』
これが運命だ
妊娠と
葬式のあいだに
あるものは 悩みだけ
『倫理』
実行しなければ
差はない
『警告』
理想を持つ人間は
それに到達しないように 用心せよ
さもないと いつか 彼は
自分自身に似るかわりに 他人に似るだろう
以上です。悩みましょう。考えましょう。
そして、決断しましょう。覚悟を決めましょう。
次回|メンテナンスと世界平和
中野(Hr. / 人生万事塞翁が馬)
ここまで長々と駄文を読んでくださってありがとうございます。普段はもっとストロー級の文章を書いています。下のフォームからメールアドレスを登録してもらえれば、ブログが更新された時に登録したアドレスにお知らせが送られてきますよ!これで毎度毎度、更新をチェックせずに済みますね!便利な時代ですね!なお、そんなに更新頻度は高くないのでごあんしんだ。
参考文献
今週のリコメンド|Melody Gardot
フィラデルフィア出身のシンガー・ソングライター。
16歳の頃、ピアノ・バーでバイトとしてプレイし始めた時には、ママス&パパス、そしてデューク・エリントンからレディオヘッドに至るまで、時代を問わず自分が好きな歌ばかりを自由気ままに演奏していた彼女。だが、19歳の時自転車で帰宅途中ジープに跳ねられ、背骨を含む数箇所の複雑骨折、神経、頭も怪我をするなどの重症を負い、一年間寝たきりの生活を余儀なくされる。以来、生涯後遺症として背負った視覚過敏よりサングラスを手放せなくなり、リハビリとして医者に勧められた音楽セラピーにより曲を書き始める。やがてゆっくりと確実に回復していくうちに、ベッド際のポータブル・マルチ・トラックで自ら録音した6曲入りのEP『SOME LESSONS: The Bedroom Sessions』を2005年に発表。フィラデルフィアを中心にフェスやライヴにも出演し、静かな中に熱いハートの感じられる彼女の音楽はたちまち話題となる中UCJが契約。まだ20代の前半の若さながら、エラ・フィッツジェラルドやビリー・ホリデイ、そしてニーナ・シモンにも通じる飽きのこない、優しく包み込むようなスムーズな歌声が魅力で、その歌声は幅広い世代の心にも違和感なく響き渡る。
biographyより
気だるさあり、喪失感ありの非常に情緒的で誘惑的な歌声が魅力的。まずご紹介するBaby I’m A Foolを聴いて衝撃を受けた。是非聴いてみて。
余談1: マジでガチになってしまった。自分自身の決断のために書いている節もあり、肩に力が入ってしまった。脱力していこう。ふにゃふにゃしていて捕らえどころの無い奴だと言われることもあるが、こういうときに限っては俺は本気の目をしているらしい。あと、指揮している時と楽器の演奏中。
余談2:国立科学博物館で12月1日まで開催の『風景の科学展』が最高に良かったので、東京近辺にお住まいの方や都内に出張などで行かれる用事のある方はぜひ行ってみて欲しい。風景写真を観て、そこに研究員は何を見るのか。非常に面白く、美しく、考えさせられる展示だった。
余談3: 今回のライブでの個人的推し。聴者側なら本命がイーストコーストの風景、対抗がRiverdance、穴馬で オリエント急行。奏者側なら本命がオリエント急行、対抗がイーストコーストの風景、穴馬でマゼランの未知なる大陸への挑戦。イーストコーストの風景が優勝です。