タイガーをあなたのクルマに。

人は結婚と育児を経験し
ミニバンに乗って死ぬ

ジェレミー・クラークソン (英・TV司会者)

先日、親父が自身への還暦祝いとしてクルマを買い替えた。親父は自分へのご褒美を頻繁にやっており、それがバレる度にオカンから呆れ顔をされている。それはさておき、一人のクルマ好きとしてクルマ選びのアドバイスを求められ、試乗にも何度か付き合った。「しばらく国産ミニバンばっかりだったけど子供達も独立したし、次は楽しいクルマに乗るんだ。できれば外車に乗ってみたい」と言い、Audi S1やルノー ルーテシアRSやVW ゴルフGTIといったホットハッチと、VW Arteonやアルファロメオ ジュリアといったスポーツセダンを中心に乗り比べていた。ナイスチョイス。俺はアバルト595を強く推していたが、結局買ったのはVOLVO V40のディーゼルだったので俺は「なんでやねん」とずっこけた。V40もいいクルマですけどね。

クルマ好きとしての原体験は、幼少期にあるのだろう。今ではしょぼくれたオッサンに成り果てつつある俺であるが、それはそれは小さく可愛くやわらかで笑顔が輝き、道行く女子高生がすれ違いざまに必ず振り返っていた頃、祖父・祖母の家によく遊びに行っていた。今は亡き祖父の運転する3代目アコードに乗り、色々なところへ遊びに連れて行ってもらっていた。「クルマさえアレばどこへでも行ける!」「運転したい!」と幼心に思っていた。そして、祖母に付き添ってもらって近所のエッソに行き、タイガーとクルマをワクワク眺めていた。よく見かけるホンダ・ビートが本当に好きだった。コンパクトで、速くて、何より楽しそう。今でも好きだ。何故だか書いてたら泣けてきた。

生活のためのクルマ

クルマは便利だ。荷物も積めるし、音楽も聴けるし、何だったら住むこともできる。楽器の練習なんかもできる(夏場はマジ危険なのでおやめください)。鉄道と違うところはレールの上を走らないということだろう。あらゆる時間、どんな辺鄙な場所でも、道さえあれば(クルマによっては道すら無くとも)好きなところへ行ける。我々は自由だ。

都会では鉄道網の発達によりクルマは不要とされがちだが、まだまだクルマが生活必需品となっている地域は多い。俺が今住んでいる地域も、そういう傾向がある。バスも鉄道もタクシーもあるけれど、しっかりした買い物をしようと思うとやはりクルマが無ければどうしようも無い。

思えばコレほど広く普及し業製品もなかなか無いのではなかろうか。1台のクルマに使われている部品は約4,000種、20,000個とも言われ、膨大な数のサプライヤーや関連会社がそれぞれに関わっている技術や労働の結晶でもある。価格の差はあれど、その結晶が新品でも100万円弱から購入できるということはスゴいことであり、開発と大量生産と製造技術の勝利である。世の中の路上を走っているクルマの多さを考えれば、なるほど自動車産業が経済基盤になるというのも分かるというものである。少し言い過ぎ感もあるが、我々の生活は自動車産業によって支えられている。

趣味としてのクルマ

「日本でクルマに乗るのであれば、軽ワゴンで十分だろう?」という人も多くいる。法定速度は十分出る。荷物はそこそこ乗る。ゆったり四人乗れる。わざわざ好んで高価なフェラーリやランボルギーニに乗って使い切れないパワーにイライラする必要もないし、収納スペースのあまりの小ささに途方に暮れる必要もないし、何より二人しか乗れないじゃないか、と。そもそも都会ではクルマの必要性も無いじゃないか、と。

「違うのだ!」と声を大にして言いたい。クルマには利便性やコストパフォーマンスだけでは語れないワクワクと情熱と自由が、そして何より愛があるのだ、と言いたい。

一台のクルマに対して、ある人はその加速やハンドリングに熱中し、ある人はそのデザインに惚れ、ある人はエキゾーストノートに興奮し、ある人はその希少性や社会的ステータスに価値を見出し、ある人はその歴史を知り感銘を受け、ある人はカスタマイズやメンテナンスで自分だけのオリジナルを作り、ある人はその技術や機構に感心する。そしてクルマを操ってドライブに行き、クルマとの一体感を感じ、風を撫で、美しい景色に出会う。愛があるのだ。相棒として愛を注ぐことのできる一般的な工業製品はクルマ(二輪車も含む)くらいなものであろう。

思えば、音楽を演奏するということもクルマに近いものがある(ように思う)。ステージという世界があり、楽器や別の奏者との一体感があり、自ら楽器を操って美しい表現を果たすことで、自ら楽しみ、他者と楽しみを共有する。だから、近しい人がクルマにお金をかけていてもどうかそっとしておいてあげて欲しい。そこには愛があるのだ。たとえ貴方がクルマ好きでなくても、貴方にとっての音楽やその他の趣味と同様、その人にとって大切な趣味であり、一つの逃避であり、おそらく必要不可欠なものなのだ。もし気が向けば寄り添って一緒に楽しんでみるのも良いだろう。

趣味は大切だ。心のリフレッシュ、日々のささやかな充足、自己世界の拡張。退屈だったり波乱万丈だったり無理がある人生の中で、自分をニュートラルにするためにも何らかの趣味は必要だと思う今日このごろです。

蛇足|自動運転ってどうなのさ

高齢者ドライバーによる交通事故が頻発し、事故のニュースを聞かない日が無いのではないかという今日この頃である。バスの事故も多く聞く。交通事故で亡くなられた方々のご冥福、残されたご遺族の皆様の心の安寧、怪我をされた方々の一日も早い回復を祈るばかりである。

そうなると、話は当然、自動運転に及ぶ。日進月歩で自動運転技術の開発が進んでいる。輸送機器業界の各社はもちろん、大手一次下請けメーカーや、googleに代表される業界外からも積極的に参入してきており、戦局は混迷を極めている真っ最中だ。

おそらく、そう遠くない日に完全自動運転は実現するだろう。そしてインフラが再開発される。その際には「手動自動車」は公道から排除されうるのではないか? 安全のため、渋滞防止のため、環境のため。お題目なら手に余るほどある。完全自動運転下の環境において公道において運転手はノイズでしかない。介在せず、運転はマシンに任せよ。移動の受益者としてあれ。

しかし、クルマ好きとしてこれは賛同しかねる。暴走行為は当然罰せられるべきだが、自分の意思で愛車を操り、好きなところへ行き、楽しむ権利を奪われるまでの謂れはない。我々は妥協点を見つけなければならない。

クルマ好きがいずれ滅びゆく絶滅危惧種であろうとも、生きることを諦めずしぶとく種を残さねばならぬ。エンジンに火を入れろ。火を絶やすな。

【次回】高速道路と日本語

中野(30代・男性・Hr.・DS3 Sports chic)

参考書籍

戦闘妖精・雪風で有名な神林長平さんの著作。名著中の名著。
『過去』。自動運転車ばかりになり人が運転するクルマは公道すら走れない、人々は肉体を失いデジタルデータ化されつつある近未来の日本。盗みに入ったリンゴ園で見かけた、朽ちた初代ホンダ・プレリュードに触発されクルマをイチから作ろうとする老人達の情熱が迸る。
『未来』。空を飛ぶ知的生命体「翼人」が大昔に滅びた人類について調べている地球。その過程で人間を理解するために翼を失った専門家翼人と、知識を集約して作られた人間味の無い人造人間。ある日、発掘された自動車図面を見て人造人間が突然自我目覚める。「これは、私が描いた…」
そして『現在』。
人間が持つ自由やスピードの快感への欲求。 人間とは何か? 我々はどこから来てどこへ行くのか?
みんな読んで。読め!読めって言ってるだろ!
みんな大好き伊坂さんの小説。緑のデミオが主人公。
伊坂節全開。そしてクルマへの愛、これが良い。泣ける。
クルマ好きは勿論、これからクルマを買おうという人に是非読んでほしい。
日産・Audiでデザイナーとして活躍し、初代セフィーロ、セドリック、3代目A6や初代Q7、そしてA5(死ぬほど美しい)を手がけた和田さんの車やデザインに関するエッセー集。
泣ける。クルマ好きなら必読。
クルマ好きとして一部に知られるクレイジーケンバンドの横山剣さんが、POPEYEに寄稿していたコラムをまとめたもの。
イラストを眺めてもよし、文章を読んで自動車愛を感じるもよし。泣ける。
クルマと女子高生の組み合わせ、最高であることですね?
クルマの漫画はバトルだったりポエムだったりすることが多いけれど、コレは違う。
面白くて良い作品と思うのだが、4巻で打ち切り的な完結を迎える。泣ける。

余談1:先日、沖縄へ旅行へ行った時にレンタカーを借りたら年式の新しいホンダのfitだった。車線監視、車間監視などなど、最新装備がてんこ盛りだった。安心装備・安全装備の充実ぶりがスゴいし、燃費とかメチャクチャ良い。でも、アクセルやブレーキ、ステアリングが勝手に補正されている感覚があり、気になって仕方がない。マシン・ヒューマン・インターフェースの齟齬を感じる。クルマくらい好きに運転させろよ、と梅雨空を眺めながら思った。ホンダ乗りとか関係者の人とかいたらごめん。仲良くしましょう。

余談2:欲しい車が一杯あって困る。旧車が欲しい。フォードの初代サンダーバード、クライスラーの3代目ニューヨーカー、いすゞのヒルマン・ミンクス、VWの旧ビートル、 シトロエンの2CV、日産のフィガロ、そしてもちろんホンダのビート。現行車も良い。ポルシェの718 スパイダー、アルファの4C、アバルトの595とか。

余談3:クルマはケツ、いわゆるリアビューが大事だと思う。ケツが魅力的なクルマはそれだけで魅力的に見える。分かるか?分かるな?


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